7月10日の「ゆるふわ読書会」は、伊藤亜紗著「手の倫理」第3章を輪読しながら語り合いました。
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人が人にふれるとき、「ふれる側」と「ふれられる側」は必ずしも対等ではありません。
看護師と患者のエピソードや視覚に障害をもつ方の話などを通して、自分の日ごろの言動をふり返りながら学ぶことができました。
ご参加ありがとうございました。
次回は8月21日(土)19時~です。
第3章の冒頭で、ある病院でのエピソードが紹介されています。
患者さんの胸の計器が外れているのに気付いた看護師が、黙って患者さんの体にさわったら足蹴りにされたというものです。
おまけに、退院時の情報提供書には「暴力行為あり」と書かれていたという…。
患者さんからすれば、自分の体にいきなりさわる看護師の行為のほうがよっぽど暴力的だったろう、と筆者は言います。
現場の「あるある」だなあと悲しくなってしまいましたが、振りかえれば私自身も、「意識がない」と思われている患者さんの体に黙ってさわっていたなと反省しました。
ふれる側にそんな意図はなかったとしても、ふれる相手を傷つけたり苦痛を与えたりしてしまうリスクがあるということを自覚していなくてはなりません。
ふれるという行為は、相手の「内部に入り込む」ことだからです。
「ふれられる」ということは、自分の内部にある衝動や感情までも、相手に知られてしまうこと。
ふれられる側からすれば、相手との距離がとれなくなるというリスクを冒して「ふれられる」ことを受け入れるためには、「信頼」が必要なのです。
リスクを冒しても「ふれられる」ことを受け入れる「信頼」とはどういうものなのでしょうか。
筆者は、「安心」と「信頼」の違いを明らかにすることで説明しています。
●「安心」は、想定外のことがおきるかもしれないという不確実性(リスク)が、ほぼゼロと確信できる状況にある
●「安心」は、相手のせいで自分がひどい目に合うかもしれないという可能性を意識しないということ
●「信頼」とは、相手が自分の想定とは違う行動をとるかもしれないという状況にもかかわらず、それでも、相手がひどいことはしないだろうと期待すること
●「信頼」とは、相手のせいで自分がひどい目に合うかもしれないという可能性を自覚したうえで、ひどい目に合わないほうに賭けるということ
この「にもかかわらず」信頼する例として、筆者は、夜間以外は施錠しないグループホームを紹介しています。
「注文をまちがえる料理店」の企画でも知られている和田行男氏の運営するグループホームは、様々な工夫でリスクを最小限にしながら、入居するお年寄りが「ふつうの生活」を営んでいます。
相手が意思を持って行動することを尊重しようとするなら、そこには必ず想定外のことが起きうる。
だからこそ、お年寄りの力を信頼し、想定外がゆるされる生活の場を整える努力をしている。
「にもかかわらず」信頼するということは、主導権を相手に渡して「委ねる」ということでもあります。
ふれられる側からすると、どうふれるかという「接触のデザイン」の仕方、つまり主導権を「ふれる側」に委ねることになります。
ふれる側からすると、相手の心身の状況によって、「どうふれるか」という「接触のデザイン」を決めているということになります。
ふれられる側が、どうふれるかを相手に決めさせているのだという視点は、目からウロコでした。
この視点をもてるとき、冒頭の看護師がしたような一方的な行為はなくなるのではないだろうか。
苦痛を感じているのか、安楽な状態でいるのか、不機嫌なのか、穏やかな心地でいるのか。
●ふれる側は、言葉をかけ、観察し、想像し、相手からのリアクションの不確実性を乗り越えて(信頼して)ふれる。
●ふれられる側は、相手がどんなふれ方をしてくるかわからないという不確実性を乗り越えて(信頼して)ふれられることを受け入れる。
ふれる/ふれられるという関係をこんなふうに捉えることができたら、ケアの場面がより豊かになると思いました。
筆者の考察は、この不確実性を乗り越える「信頼」から、それを意識しなくなる「安心」へと進んでいくのですが、ここからは、とても私などには説明できない深さなので、ぜひ本を読んでいただきたいです。