『構想』と『実行』の統一を目指す

お金の話は苦手です。おこづかい帳も家計簿も3日と続かないし、何かのために貯蓄するということができない性分です。あると使ってしまう…(笑)

株価がどうのとか、景気がどうのとか、そういう話になると、脳が止まってしまいます。

このコロナ禍にあって馴染めなかった言葉のひとつが、「経済を回す」でした。

“外出自粛”で飲食や観光などが大変、ということは理解できます。「なんとしても経済を回す」ため、〇〇キャンペーンに税金を投入、市民が外出してお金を使う、すると「経済を回す」ことになる…?

〈経済〉を辞書でひいてみると、『国をおさめ、民をすくうこと』『社会生活を営むのに必要な売買・消費・生産などの活動』とありました。民が行う「売買・消費・生産などの活動」に〇〇キャンペーンすると、経済を回していることになる…?

そんなもやもや感を解決してくれたのは、1月に放送された「100分ⅾe名著~資本論~」でした。

私が「何としても経済を回す」という言葉に違和感を抱いたのは、『人間のために回すのではなく、回すこと自体が自己目的化している』からなのだとわかりました。

コロナ後も変わることなく環境を破壊し、地球を掘りつくし、便利で売れる商品を生産・消費して、経済を回し続けていいのでしょうか。

「商品」に振り回されず、コモン(森や水や土地、エネルギーなどの共有財産)を根源的な「富」として再生し、シェアする未来へ。

 

「労働」と「生産性」についての話は、今の私にとって大変に興味深いものでした。

 

●「労働力」は人間が持っている能力で、本来は「富」のひとつ

●資本家は「労働が生み出す価値」を労働者から買っているのではなく、「労働力という商品の価値」に賃金を払っている

●日々の豊かな暮らしという「富」を守るには、自分たちの労働力を「商品」にしないことだ

 

しかし・・・

●技術革新によって生産性が向上することで、労働者は楽になるどころか、ますます労働へとかりたてられている

●技術発展の結果、多くの労働は、無内容で無意味、つまらないものに

●単純作業に閉じ込められることで、人間の労働が本来持っている技能という「富」が、どんどん貧しくなっていく

●誰でもできるような仕事を、クビにならないように必死にまじめにやっている

●労働者が労働条件を使用するのではなく、労働条件が労働者を使用する

 

 

●本来の人間の労働は、どんなものをどのように作れば役にたつかという『構想』と、それを実際の形にする『実行』とが統一されたもの

●資本家は、生産過程を細分化して分業させ、労働における『構想』と『実行』を分離することで生産性を高めた

●『構想』は資本家や現場監督がするものとし、労働者は『実行』のみになった

●作業をマニュアル化することで、労働者をシステムに組み込む

●『構想』することを奪われた労働者は、知識や洞察力が身につかず、『実行』面でも能力を開花させられなくなっていく

 

 

これは、まさに「介護のサービス業化」で行われてきたことでは?

介護する人も介護される人も、システムに組み込まれ、点数化され、細分化された時間でノルマをこなさなければ、「サービス」を受けられず、「報酬」を受け取れません。

システムや細分化された時間に適応できないものは、問題ありのレッテルを貼られていきます。

現場で『構想』することを奪われた介護は、想像力や洞察力を身につけることができません。

そのため、『実行』においても能力を開花させることができず、成長への意欲を持てません。

 

介護における労働を豊かにするには、どうすればよいのでしょうか。

 

現場に『構想』を取り戻すには、対象者の全体像を24時間365日を通して見ること、一人ひとりの可能性を見出すこと、暮らしの主人公になるケアを築くこと。

職員同士も対話を重ねること。

 

ムダやムリを減らすことが目的化しないように。

目先の成果にとらわれすぎないように。

 

『構想』と『実行』が統一された「労働」をしたい。

そういう豊かな「労働」を「富」にしたい。