《象徴》を手放したあとの話

5月の始め、実家の母が転倒して右手首を骨折。

家事の一部を支援する状態から、“要介護”となりました。

 ⇒過去記事「老老介護の始まり

母のジコチューぶりに嫌悪感を募らせながら、私もまた「看護介護を職業としている娘としてやるべきことをやらねば」という自分本位な考えで介入していました。

そして、「すっかり腰の曲がった親にやさしくできない自分」への嫌悪感が増していきました。

10月の終わり、《私のなかの子ども》のために、母の《象徴》としてのピアノを処分しました。

 ⇒過去記事「象徴を手放した話

 

その後の変化についての話です。

 

 

目の前にいる母は、《たましい》のない《ぬけがら》となりました。

まるで、機械じかけの人形が動いたりしゃべったりしているかのように。

いっとき、母が何を言っていても何をやっていても、私の感情に触れることがなくなりました。

こちらの受信機が変わることで、見え方や感じ方が違ってくる。

ほんとにそうなんだなあと、実家に行くたびに感じていました。

 

 

 

しかし・・・これは長続きしませんでした。

相手から発信されてくるものは同じなわけで、だんだんと私のバリアーが破壊されていくような気がしてきました。

つまり、私も本当は変わっていなくて、今までと違う鎧を着ていただけだったんだなとわかりました。

 

 

母には、何度も何度も「ヘルパーさんたちや家族で作るチームの一員に自分自身もなって、みんなで一緒にやっていくという姿勢がなければ在宅は続けられないよ」と言ってきました。

それが通じないことが、そこを変わってもらえないことが、どうしても受け入れがたく許せないのだとわかりました。

 

 

 

指図したり縋りついたり、非難したり怒りを爆発させたりしながら周囲を支配する母。

たとえ孫からでも、その場の主役の座を奪おうとする母。

 

 

 

いったいどうすれば?

 

 

父の老老介護が心配ですが、それも父の意志でやっていることだ気づきました。

私は二人の人生に責任は持てないのだと気づきました。

 

 

 

ならば、お任せすることにしよう。

わがままジコチューで支配的な母に、根気強くかかわってくれているプロの方たちに。

そして、ことの《なりゆき》というものに。

 

 

 

恥ずかしながら、これが私の現実なのだから。

そんな心境の今日この頃です。