高齢者の介護において、<自立>あるいは<自立支援>ということがよく言われます。
何らかの支援が必要な高齢者の自立とはなにか。
なにをもって自立している高齢者というのか。
介護現場でよく聞かれるのは、できることは自分でやってもらうことが大事で、できるようにするのが自立支援という意見です。
この場合、できるのにやらないとされた高齢者は、「甘えている」とか「意欲低下」ということに。
できるのにやらない要因には、たしかに心理的なことの影響があるでしょう。
しかし心理的なことの背景を探っていけば、物理的な環境や人間の環境などが見えてくるかもしれません。
「できるのにやらない人をどうしたらよいか」と真顔で私に問うてくる人には、そのお年寄りは「ほんとうにできるのか?」という疑いのカケラも感じられないことが気になります。
そして、やらせないとダメ、やらせられない自分がダメ、と信じこんでいる一途さが怖ったりもします。
いったい何を教わってきたのでしょう。
かりに、できるのにやらない理由がほんとうに「甘え」「意欲低下」だけなのだとしたら?
ずっと年下の赤の他人に甘えるというのは、そのお年寄りにとってどういうなことなのか。
何らかの不自由をもって介護の場にいる人の「やる気のなさ」とはどういうことなのか。
そのことにどのような意味づけをするか、そここそを問うてみてほしいと思うのです。
もし「甘えている」と感じたら、それはいったん受け取ってみてほしい。
もし、あなたに「甘えている」のだとしたら、喜んで甘えられてみてほしい。
介護で出会った他人同士の関係が、<あなた>と<わたし>の関係になるチャンスかもしれない。
私は、そのように心がけています。
そもそも「できるけどやらない、やりたくない」「甘え」って誰にでもあることではないのか。
高齢者の場合は、まさに「食べる」とか「動かす・動く」などの活動(あるいは生存)そのものに顕著に現れてくるのだけれど。
「もう頑張ってもあなたには無理ですね」というお墨付きをもらえるまで頑張るのが、自立した高齢者なんだろうか。
ああ、しかし。
これはあくまで他人同士が出会っていく話です。
親の老いを通して、「自立」の意味をつきつけられる日々であります。
当たり前にできていたことが不自由になっていく<老い>とどう向き合うのか。
不自由が増えて他人の手を借りなければ成り立たない現実に適応していくには、元来、心理的に自立している必要があるのではと、つくづく思います。
私が自費ホームヘルプで継続して関わっている高齢者の方たちは、心理的に自立しておられると確信しています。
いつでも主役の座で支配しなければならない母は、自分が優位にたとうと言葉巧みに操作してきます。
そういう意味では賢い人です。
対話は「ああ言えばこう言う」パターンなので、いわゆるキャッチボールができません。
最近、不自由さが増すにつれて、他者を支配しようとする傾向が顕著です。
家で暮らし続けるにはどうしたらよいか、なにが必要か、などという前向きな話し合いはできません。
互いに協力し合って、ということがとういうことなのか理解できません。
「できる・できない」の話ではなく、「私の思い通りにやれないあなたが悪い」です。
第3者がいれば話は別で、とても低姿勢に賢くふるまいます。
第3者がいなくなったあとが、家族に対して倍返しに大変なのです・・・。
聞くに堪えない言葉で、鬼の形相で責め立てます。
そして、最後は自分の身を嘆き哀れみます。
父は「身体が思うようにいかないからイライラするんだろう」と理解を示します。
私は「もともとそういう人だから」と自分に言い聞かせてしのぎます。
「自立している人」とは、他者を信じ他者を敬う人、そんなことを母を見て思います。
父が「やれるだけやった」と納得できる日がきて、すべて第3者に委ねる状況になったら、心から他者を敬う日がもしかしたら来るかもしれない・・・などと、まだ期待してしまう私であります。