今から3ヶ月前、5月始めに実家通いのことを投稿した数日後、まるで図ったかのように、母が転倒して右手首を骨折。
事態は急展開して、本格的な老老介護となりました。
⇒過去記事「自分で見ようとしなければ」はコチラ
私はもう10歳の子供ではないので、夫婦の諍いごと(母から父に仕掛けていくゲーム)に巻き込まれるいわれはありません。
母が私に仕掛けてくる諍いごと(本人はそんなつもりはない、と言うが)のために、不毛な時間やエネルギーを使いたくはありません。
老いて不自由になってもなお、諍いを仕掛けて被害者を演じる母の姿に、私の感情は揺さぶられ傷つきますが、「暮らし」をどう組み立てるか、「介護」をどうするか、このことに目を向けて関わるようにして、どうにかすごしているこの頃です。
母が不自由の域に入ったきっかけは、腰椎圧迫骨折による腰痛や足のしびれからでした。
まず、「買い物」という移動に不自由を来たすことになりました。
次に、「掃除」という動作が困難になりました。
そして、「台所に立つ」という、本人にとって最も大きなイベントができなくなりました。
とうとう、「入浴」を嫌がってしなくなりました。
そんな状況でも、父や私や訪問ヘルパーを信用できず、以前と同じように動いては転倒を繰り返しました。
例えば、ゴミ出しの朝の転倒。
父が家の前に出した可燃ゴミを、わざわざ後からチェックしに行って、門扉の階段で転んでコンクリートで背中を強打という具合です。
5月始め、ついに右手首を骨折することになるのですが、「利き腕にギプスを巻いてバランスが悪くなっているから、絶対に余計な移動動作はするな」と、いくら言ってもムダで、今度は顔から転倒してしまい、危うくメガネのレンズが目に刺さるところでした。
「今度転んだら、ほんとうに寝たきりになるよ」と、主治医から言ってもらってもムダでした。
次に問題になってきたのは「排泄」でした。
最後の最後、ついに「自分でトイレに行く」という「移動」ができなくなりました。
どんなに情報や知識や物や用具を提供することができても、納得できるようにと忍耐強く話をしても、本人がそこに参加してこなければ何の役にも立たないことを思い知りました。
このやっかいな母の「人格」というものの前では、私は無力な10歳の子でしかありませんでした。
この強情さ。
他者を蔑み、他者を信用できないゆえに、みすみす状況を悪化させていることに気づかない。
父に介助をさせてトイレに行ったり、失敗した始末をさせたりしていましたが、7月のある朝、とうとう父からSOSが来ました。
かけつけると、汚物にまみれた母の前に立ち尽くし途方にくれる父がいました。
母も観念したようすでした。
体をきれいにして、周囲を整えて、状況把握。
もろもろ手配をして、母のベッドサイドに、ポータブルトイレを設置しました。
浜田きよ子/寺田和代著「福祉用具で変わる介護のある暮らし」中央法規出版に紹介されているラップポン
便座の下にラップが仕組まれていて、そこに吸収剤をいれておきます。排泄後、リモコン操作でラップが圧着され切り離されます。
今は排泄に関して父の手を借りることなく、移乗はもちろん、電動スイッチの操作や吸収剤の補填も自分でしています。
実は、ラップポンの設置に至るまで、それはそれは大変でした。
(「ケアマネージャーって何する人なの?」については、また別に書きたいと思います)
また、心身の機能的には十分に可能な「移乗」や「操作」を母が自分でやる気になるまでにも、紆余曲折ありました。
しかし、少なくとも、介護する人と介護される人の間で、一番負担感の重い「排泄」から、父の身体的心理的負担を減らすことはできました。
今朝も訪問時、私と顔を合わせたとたんに母の口から出たのは、父を責める言葉でした。
父は今も「できるだけ家で」と言うので、老老介護のためにできることを見つけて、できることをやっていきましょう。