松山市立子規記念博物館で特別展示されている『山頭火と松山の人びと』では、博物館が新たに収蔵した山頭火の直筆資料を見ることができます。
⇒子規記念博物館についてはコチラ
そんな展示が行われていること、私はぜ~んぜん知らなかったのですが、ゆかりの方から偶然に教えていただく機会があって、さっそく行って来ました。
博物館が新資料を収蔵したことは新聞記事になったらしいのですが、特集展示の貴重な機会を逃すところでした!
松山市の資料から内容を見ることができます。
⇒興味関心のある方はコチラから
受付の方に「チラシがほしいのだが」と聞いてみましたが、「ありません」という返事で・・・。
平日で来場者が数人…というのは仕方ないとして、山頭火のコーナーで誰も足を止めないというのは寂しかったです。
漂白の俳人 山頭火が最期の地に選んだのは、松山でした。
次のような自由律俳句で知られています。
分け入っても分け入っても青い山
うしろすがたのしぐれてゆくか
うどん供へて、母よ、わたくしもいただきまする
おちついて死ねさうな草萌ゆる
昭和14年9月。
死期が近いことを悟った山頭火は、友人の大山澄太(岡山出身)に四国行きの相談をします。
「あんた日本中を旅しているが何処が好きか」
「ルンペンはのう、ぬくい四国が好きだ。尾崎放哉も四国の小豆島で死んだ」
「あんたは四国のどのあたりがよいか」
「それは伊予の国だ、八十八ヵ所を巡礼したことがあるが、人が親切で貰いものが多かった」
広島逓信局に勤務していた大山澄太の紹介状をもって松山に渡った山頭火は、最期の一年を松山の人びとと交流しながら、数多くの揮毫(きごう)を残しました。
松山で親交の深かった人に宛てた私信や亡くなる2日前の作品など、たいへん貴重なものばかりが展示されています。
なかでも、七夕の短冊の軸幅。
夫妻で山頭火を支えた村瀬汀火骨(ていかこつ)の家を訪ねたとき、ちょうど汀火骨夫人(千枝女)が七夕の短冊を笹につけていました。
喜んで筆をとった山頭火は、遠く離れて暮らす孫の話などをしながら6枚を作りました。
その6枚に汀火骨の1作を加え、汀火骨自身が掛け軸にしたものだそうです。
後日、短冊の句を訂正したいとの葉書が山頭火から届きますが、その葉書も展示されています。
「ほんたうに幾十年ぶりかで味ふ七夕情緒でありました、帰途しきりに満州の孫がなつかしく少々憂うつになりましたよ」
「この鬚をひっぱらせたいお手手がある」
「絵本でも送ってやりませう、私も気分では好々爺ですね」
「けふもいちにちすなほに暮らせた蜩で」
時代は、日中戦争から太平洋戦争へ。
日記にも、防空訓練でみんな忙しいとか、灯火管制が不十分で叱られた、などの記述がみられます。
松山に来て一年、亡くなる直前の句です。
ついてくる犬よおまえも宿なしか
秋の夜や犬から貰ったり猫に与へたり
※ついてきた白い犬が餅をくわえていた、犬に餅をご馳走になり、あまりを猫にやった
「ワン公よ有難う、白いワン公よ、
あまりは、これもどこからともなく出てきた白い猫に供養した。
最初の、そして最期の功徳!犬から頂戴するとは!」
(10月2日の日記)
10月11日死去
(10月6日の絶筆3句)
ぶすりと音たてて蟲は焼け死んだ
焼かれる蟲の香ひのかんばしく
打つよりをはる蟲のいのちのもろい風
今回の展示の会期は、「3月下旬」までとなっています。
戦火で消失したものが多数あるなか、生き延びた直筆です。
ぜひ、貴重な資料展示をお見逃しなきよう。
※俳句や日記は、「山頭火句集」ちくま文庫 、「山頭火と松山」アトラス出版 から。