アセスメントとケアプランについて勉強したいという方から連絡をいただき、個別相談の時間を設けました。
画一的になっているのでは?・・・という気づき。何が足りないのか、どうしたら個別のプランになりうるのか・・・そんな誠実さのあふれる時間を共にすごすことができ、私のたましいが喜んでいましたよ (^^) 感謝。
「この人のために」 という一点に集中すればいいわけなのですが、
どうしても使い慣れた“思考回路”が邪魔をしています。
“思考回路”といっても、自分のアタマでは考えてはいないというのが本当のところ。
使いい慣れた“言い回し”や“センモンヨウゴ”がアタマを占拠しているようです。
「肉体」、「精神」、「歴史」、「環境」・・・それらがバラバラに記号化されてしまっているので、
センモン家が使う紙の上を埋めていっても「その人」として浮かび上がってこないのですね。
センモンヨウゴで便利に記号化してしまうと、『その人らしさ』が見えにくくなります。
『その人らしさ』を肌で感じるというような関係性が築きにくくなります。
私の質問に応えているうちに、相談者の思考回路が動き始めました。
「その人」の姿が、活き活きと立ち上がって来ました。
相談者が本来もっていた視点や感性が、キラキラしてくるのがわかりました。
素晴らしい変化でした。
たとえば。
下肢筋力低下で転倒予防が必要だから、デイサービスに行って訓練する・・・。
認知症の進行を防ぐことが必要だから、デイサービスでレクリエーションに参加してもらう・・・。
この中には「その人」が入っていない、ということに気づくのが始めの一歩。
その人がデイサービスに行くと、「その人」には何が起きるのでしょう?
あるいは行かないと、何が起きるのでしょう?
ワタシがどうしてほしいか、ではありません。
センモン家の思考を脇に置いて、その人の姿を浮かべて、その人の身になって想像してみよう。
パーソンセンタードケアでは、『その人らしさ』について次のようにとらえています。
①人はそれぞれ独自な存在である
②人はそれぞれ固有の生活史と習慣をもっている
③人はそれぞれ関係性のなかで生きている
①人はそれぞれ独自な存在である
これは、『人間とはなにか』という根源を問うことにもなるのですが、合理性や自律性や生産性などに価値をおく社会においては、障害のある人を排除することが正当化されてしまいます。
障害のある人を排除する背景には、「自分には起き得ない」という願望、すなわち、自分に起きることへの不安や恐怖が隠されています。
認知症の人にむけられる「ああなったらおしましだ」「ああはなりたくないものだ」というまなざしは、本人や家族を傷つけています。
たとえ知的なはたらきが低下したとしても、ひとりの人として大切にされなければなりません。
②人はそれぞれ固有の生活史と習慣をもっている
『その人らしさ』をつくるのは、どこで生まれ、どのように生きて、どのように暮らしてきたかという固有の生活史と生活習慣です。
また、何を大切にしてきたかという価値観や人生観、身につけてきた考え方や感じ方もあります。
そのことを、その人独自のものとして尊重される必要があります。
③人は関係性のなかで生きている
人はそれぞれ独自な存在として尊重されるべきですが、同時に、お互いに依存し関係しあっている存在でもあります。 「わたしーあなた」という関係性のなかで成長し、感情や情緒をはぐくんでいるのが人間です。
このことは、立場上、「介護される人ーする人」となった場合でも変わりません。
認知症ケアの現場では、介護者のかかわりかたによって、認知症の人の様子が変わることへの気づきがありました。
「脳の器質的な変化」の結果のみでは説明できないことが事実としてありました。
周囲の人との関係において、「私はここにいていい」「私は大切にされている」と感じられることで、様子が変わっていくのです。
『認知症のパーソンセンタードケア~新しいケアの文化へ~』
(トム・キットウッド著/高橋誠一訳/筒井書房)より
このように見ていくと、パーソンセンタードケアが大切にする『その人らしさ』は、決して認知症の人に特別なことではないことがわかります。
わたしたち誰にとっても、人が人として生きて行くうえで大切なことだといえます。
認知症の人の『その人らしさ』を大切にするケアを実践するとき、ケアする人自身も、自分を大切に思うことができるでしょう。