自分を責め続ける家族の話

ぐんぐん気温が上がって30度をを超えた日、残念な話を聞きました。

在宅介護を続けていた母親の認知症がすすみ、周囲のすすめで施設に入所させる選択をしたところ、誤嚥性肺炎で入院。そのまま亡くなってしまいました。その人は、数ヶ月たった今も、自分の選択を責め続けているというのです。

ケアマネージャーの勧めで施設入所を申し込んではいたものの、できるだけ在宅でと考えていました。そこに、たまたま新しい施設ができて「今なら入れるから」という言葉に決心をしました。
しかし、入所してすぐに母親から笑顔が消えたことに気がついていました。

「気づいていたのに、何もしなかった」


「これどうやるんやった?」と言い合いながら、裸の母親を乗せた入浴装置の機械を動かしている職員を見て、とても不安を感じていました。

「不安を感じていたのに、声を出しませんでした」

「すぐに後悔していたのに、行動しませんでした」

 

そう言って、施設を恨み、自分を責め続けているのでした。

在宅サービスを利用して出かけたときの、笑顔の写真を見ては悲しんでいるというのでした。

決して自分ひとりで決めたわけではなく、周囲で支えてくれる人たちと話し合ったうえでのことだそうです。

けれど、「よくみてあげたよ」と、いくら慰められても、おさまりがつかないようなのでした。

 

「家族介護は60点でいい、それくらいじゃないと続かない」とか、

「どんなにやっても悔いは残るもの」といわれています。

だからこそ、介護を仕事にするものは、家族にとってかけがえのない人の最終ステージにかかわっているのだということを肝に銘じておかなければなりません。

スタッフから見れば、何十人かいる入所者の一人にすぎなかったのかもしれませんが、

家族にとっては、ただひとりの人なのです。

 

どんなによいケアをつくしても、この施設のような作業をしていても、いずれは最期のときが来ます。

いつどのような形で訪れるのかは、誰にもわかりません。

だからこそ、このひとときが豊かな時間となるように、今日一日をつないでいくのが介護の仕事です。

 

家族の声なき声を聞くことのできない事業所は、職員のことも、<基準を満たす数字>としか見ていないような気がします。

現場で奮闘する私たち自身が、人の命にかかわって給料をもらう仕事だという自覚を持たなければならない、改めて思ったできごとでした。