1月22日の「折々の言葉」(朝日新聞)は、
プライバシーに関するものでした。
『プライバシーとは他人に挨拶することで守られ
る自己のことではないだろうか 松山巌』
日本家屋は襖や障子で部屋に鍵はかけられないけれど、日常の礼儀やちょっとした挨拶でプライバシーは支えられていた・・・と。
これを読んでピピッときたのは、これまで何度か登場している私の宝物『ためらいの看護』のプライバシーに関する話のところでした。
「プライバシーを守る」看護も介護も職業倫理として必ず言われることですが、
「個人情報を漏らしてはいけない」「秘密を守らないといけない」というような
単純な話ではないというのが現場で働くものの実感だと思うのです。
そもそも「個人情報」や「家庭の秘密」をやりとりしなければ『連携』はできません。
誰にどこまで「漏らす」ことが許されるのでしょう。
それにふさわしいケアになっているでしょうか。
プライバシーを守る=個室 、という単純な図式では認知症高齢者の介護は語れない。
お年寄りに合わせてもらう施設ではなく、お年寄りの暮らし方に合わせる場を作る思考回路でなければ。
名前はイニシャル・顔にはモザイクや☆で、そこまでして何が伝えたいんだ?
はたして、その人の「プライバシーを守る」ことになっているのか。
お年寄りの姿ではなくて、「私たちこんなにやっています」と伝えたいのではないのか。
『ためらいの看護』第7章「隠すプライバシーで露わとなること」を改めて読み返しました。
「私的な(private,privè)」という言葉の語源は、ラテン語の「奪う」であり、
それは公務や公職から解き放たれた(奪われた)状態を意味する言葉だったそうです。
『プライバシーということばが、今の私たちに与える響きは、
プライバシーの価値であり、プライバシー侵害を拒否する権利意識である。
けれども、これはずっと昔からそうなのではなかったということだ。
「私的」ということは「公的でない」という意味で、権利の剥奪であり、負の価値でしかなかった。』
『プライバシーということで隠される情報は、社会的に負の烙印を押されている事柄に集中している。』
『差別や社会的非難につながる情報は、プライバシーというパンドラの箱に入れてしまわれる。
犯罪歴、精神病、認知症、借金、堕胎、離婚、不倫、同性愛、エイズ、奇形、難病、部落、在日、
SM、女装、カルト、不登校、中退、不法滞在・・・。』
『声を出せない、名乗れない、周囲の悪意も善意もそれらの声を封殺する。』
西川勝 『ためらいの看護』 岩波書店 P.170より
名前をイニシャルに変えられたり、顔に☆をつけられた高齢者の画像は、
私はここにいますという声を封印されているような気がしてなりません。
「プライバシーを守る」という意識でやっていることが、その人の何かを『奪う』ことになっていないだろうか。
要介護状態であることや施設入所していることを世間に知られたくない、という本人や家族もいることでしょう。
隠すようなことでも恥ずかしいことでもないと、ちゃんと言える人になりたい。 なりましょう!
介護施設のロビーで遭遇したことですが、介護スタッフがノックも言葉かけもなく、無言で利用者の個室に入っていました。
しばらくして男性の乗った車椅子を押しながら出てくると、また無言で無表情のままエレベーターに乗り込みました。
個室だから「プライバシー」が守られていることにはならない。
本人が「恥ずかしい」と思うような介護をしてはいけない。
←2014年の「オムツ外し学会」でいただいたサイン
⇒その時の記事はコチラ