定期購読している「Juntos」に連載されていた「ともに暮らすためのレッスン」(大友愛美)の最終回。
『支援を求めてやってくる人』たちのなかにいる、
『幸せになりたいという言葉とは裏腹に、どうしても被害者席を譲ることができないように見える』人について書いてありました。(筆者自身も、かつては被害者席で安心感を得ていたそうです。)
伸ばされた支援の手をつかもうとせずに、
『あの人のせいで』『どうしていつも私ばかり』と、
自分にとっての加害者ばかり見ているような人。
介護や福祉の仕事をしている人なら、
一度は経験したことがあるのではないでしょうか。
一生懸命かかわっているだけに、
「ほんとうに助けてほしいのかしら」
「私は余計なお世話をしているのかしら」
こんな疑問や空しさを感じるようになります。
「どうせあなたにはわからない」な~んて言われたりなんかしたら、かなり凹んでしまいます。
そして、「気が済むまで被害者席で嘆いていればいいさ」そんな投げやりな気持ちにもなってきます。
筆者は言います。
『心を閉ざして怯えている人』にとっては、手を差し伸べてくれる人の存在も、
『やがては見捨てる可能性のある人が一人増えただけ』であって、
『絶望の種』になるのかもしれないと。
閉ざされた心を開くのは本人であって、他者が外から開けることはできないのです。
ほんとうは『希望の光を求めている』ということを信じて、誠実に淡々とかかわりを続けるしかないのです。
困っている(ように見える)人は、他者の助けを受けるのがあたりまえ。
・・・そんな上から目線になっていないかどうか、こころしておかなければならないと思いました。