昨日の投稿で、ナースコールを押すときのことについて触れました。
病室に備わっているナースコールを押すと受信機が鳴って、誰かが受話器を取ってくれるしくみです。
病室に響く自分の「声」が、どのように受け取られているか、患者や家族の身になって想像してみる必要があると思います。
←マーガレットも満開です
哲学者:鷲田清一氏の著書
「大事なものは見えにくい」(角川ソフィア文庫)から
「声」について書かれたところを紹介します。
著者が訪れた医院の待合室で見かけたのは、
母親に「絵本を読んで」と何度も求める幼児でした。
「読んで」とせがむのに、母親が読み始めると、
他の子どもが遊ぶオモチャのほうを目で追うことを繰り返していた、と。
本の内容(言葉の意味)より、母親の言葉が自分に語りかけられているという状況を求めている、と。
ここで「母親の声の肌理」という言葉が使われていて、ハッとしました。
※肌理(きめ)…皮膚や物の表面の細かいあや ものごとをする際の心くばり
子どもだけでなく、大人でも浴びたいと思うだろう「声」。
「背後に社会が透けて見えない、だれかの存在そのものであるような声」
「もっぱら私のみを宛先としている声」
「<わたし>を気づかう声、<わたし>に思いをはせるまなざし。
それにふれることで、わたしは<わたし>でいられる。」
大事なものは目には見えにくいですが、
大事なものが「声」や「まなざし」に込められているかどうかは、
とてもとてもよく感じることができるものなのです。